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仙台味噌を買って応援

2月23日


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3・11があって、ウチのオクサマが石巻社協のサポートに行っていた縁で、まとめ買いをして知り合いの皆さんに買っていただいでいる仙台味噌です。1kg入で、左が460円、右が少し高級で600円です。

この味噌屋さんも津波に遭われましたが、蔵は無事だったので、販売しているのは震災前に仕込んだ貴重なものです。

風評被害を吹き飛ばし、文字通り食べて応援したいためと、皆さんに自信を持って買っていただくために、放射能を測定しました。測定したのは、「放射能測定伊那谷市民ネットワーク」 http://rm-ina.net/ で、近所の絹田君 http://aozoratamago.blog90.fc2.com/ に付き合ってもらい、一時間かけて測定しました。

結果は以下の通りです。

・ヨウ素131  <1.1  0±1.1
・セシウム137 <1.1  0±1.6
・セシウム134 <1.5  0±1.5
でした。

予想通り、安心した結果を得られました。
ご近所で人が集まる場があれば、都合がつく限り売り歩いています。また、連絡いただければお渡ししますのでよろしくお願いします。
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福島南相馬へ

12月9日

半年振りにブログの世界に帰ってきました。

先週4~5日にかけて福島南相馬にみんなで作った無農薬のお米と、阿智村や近隣の皆さんから寄せられたお米や野菜、果物などを届けてきました。

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南相馬ファクトリーの一つである「えんどう豆」のスタッフと通所者のみなさん。震災と原発事故でバラバラにされたしょうがいしゃのみなさんが、もう一度震災前の生活を取り戻すために、缶バッチなどを制作・販売している。
後列左側から二人目は、今回の支援米プロジェクトリーダーの金子さん。金子さんのブログは http://ameblo.jp/nejimaki-orion/entry-11422339528.html



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届先は、南相馬市、相馬市の六ヶ所のしょうがいしゃ施設で震災後に作られた「南相馬ファクトリー」。お米8俵、林檎コンテナ8ケース、富有柿3箱、キウイ、じゃが芋、人参、白菜などの農産物。木工品、クレパス、ぬいぐるみなど。



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南相馬ファクトリー代表の佐藤さんに、みんなに書いてもらった寄せ書きをお渡しする。


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南相馬の田んぼは去年と今年稲の作付禁止。来年は作付が解禁されるようだが、山付きの田んぼは放射能の除せん、放射能汚染のない海岸に近い田んぼは水路の復旧、地盤沈下や津波被害による除塩が課題。
農機具や施設の被害や、働き手が亡くなったり、遠くに避難している人もいるだろうし。
来年から稲作が解禁されたとしても、全市一斉に米作りのスタートが切れる状況ではない。



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南相馬小高区の商店街で見つけた今は休業中のお菓子屋さんの看板。
震度6の地震に見舞われた小高区には潰れた家も多い。
避難区域から解除されたばかりで、電気は復旧したが、水道はまだ。昼間は立ち入ることができるが、夜間の滞在はまだ許されていない。
地震による破壊に加えて、放射能の影響で、この街の復旧・復興は始まったばかりである。
元気を出すためか、殆ど無人の街の電柱のスピーカーから流れてくる演歌が哀しい。



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われわれが行けるのはここまで。


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浪江町「希望の牧場」。

原発周辺の牛は殺処分せよとの国のお達しで多くの牛たちが殺処分された。繋がれたまま餓死した牛も多数。殺すのが忍びなく、野に離した牛が野良牛となる。
原発周辺に放置された犬や猫のペットの保護は許されるが、野良化した牛の保護は認められず殺せと。ペットは大事な家族で、牛たちは食用に供することができないただのモノだからか。
「希望の牧場」の吉沢氏は、牛たちを生かして放射能の影響について調べよと。氏は牛の寿命の20年を、牛たちと共にこれからここで生きていくと。絶望的状況の中でもあえて「希望の牧場」と名付ける。



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栄養不足のためか皮膚病で肌に潰瘍ができ、痩せた子牛の流す涙。耳票が付いているので、3.11の直前にうまれたのだろう。
この子牛はもう直ぐ命を終えるかもしれない。
果たして人は牛よりも賢いといえるか。賢いという人がいるのなら、何故人はあのような未来さえ奪う事故を引き起こしたのかと問いたい。
希望の牧場の吉沢氏の言葉に、牛飼いの意地と、牛への深い愛情を感じた。



誓い

3月11日 

 東日本大震災の日に

 

一年前の今日 午後二時四十六分

運命が変わった 

テレビで見た津波 

壊されていく日常の暮らしと

理不尽に奪われていく命

次の日から始まった原発の爆発と放射能の拡散

私の体の半分を作る福島が

放射能と 人々から陵辱された



私は本当は分かっていたのだ

原発が動いている限り

いつかはこの日が必ず来ることを



あれから一年

私は毎日

何ができるか 何をすべきかを考えてきた

大したことない自分が

立派なこと出来るわけはない

でも この島と この社会

同じ時代を生きる人間として

その責任において

これからも少しだけ無理をしながら

津波被災者のみなさん

放射能とたたかう福島に寄り添って行きたい

これが私の今日の誓いだ


3・11はラストチャンスか ②

 1月25日

第3回「森と水と共に生きる ~田中正造と南方熊楠~」は、田中正造の途中から観ましたが大変濃い内容でした。

 

明治の富国強兵・殖産興業の国策の下、近代日本初の公害といわれている足尾鉱毒事件が発生しました。渡良瀬川の最上流にある足尾銅山では、銅の製錬で発生したガスによって森は枯れ、保水力を失った山は、毒物を含んだ鉱滓を下流域に流し、洪水のたびに田んぼの米は鉱毒に汚染され、農民たちに被害を及ぼします。明治政府は洪水調整のために谷中村に調整池を作ることに決め、土地を強制収用して、農民を追い出します。成田空港を作るときに、三里塚の農民の家や農地を強制収用したのと同じ手法です。

 

衆議院議員の田中正造は、帝国議会で孤軍奮闘して足尾鉱毒事件告発していました。しかし、議会に思いは届かず、議員を辞めて死罪を覚悟で天皇に直訴する事件を起します。狂人の戯れ事と放免された後は、洪水のたびに鉱毒に苦しめられている農民達の中で生活することになりますが、最後は身一つになり、運動の途中で果てます。

最初、被害民を救済してやろうという立場で地元に入った田中正造は、やがて彼らから学んで活動することになり、現場で被害民と共に活動するスタイルを「谷中学」と名付けます。

 

田中正造の活動スタイルは、戦後水俣に受け継がれました。チッソ水俣工場が原因の水銀中毒に苦しむ患者さんの救済に関わった医師たちが、やがて患者さんたちに影響を受け、地域に生きる患者さんから学び、共に生き地域を再生させていくという「水俣学」に生かされました。



知の巨人と言われる南方熊楠。

アメリカとイギリスに遊学後は故郷の紀州に暮らし、山に分け入りながら移動する生命体の粘菌の研究や生物学、博物学、民俗学・・・好奇心のままにあらゆるものの研究に没頭した。

熊楠は熊野の豊かな山の中での植物の研究を通して、すべての命が繋がって循環していることを「エコロギー」と言い、独自の南方曼荼羅に表現します。彼は、エコロギー=生態学を日本に紹介した最初の人でもありました。

 

自然の仕組みを把握した熊楠は、当時政府が戦費調達のため「神社合祀令」を出し、鎮守の森の伐採を進めていた事に反対していました。神社の破壊は森林の破壊に留まらず、文化の破壊にもなるということがわかっていたのだと思います。

熊楠がどれだけの仕事をしたのかは、多分誰にも把握できないと思うほど、膨大な研究結果と後世に残る示唆を残しました。

 

番組の最後でゲストの中沢新一が、田中正造も南方熊楠も司馬遼太郎の『坂の上の雲』と反対の生き方をした人だった、と言いました。

なるほど、生前司馬遼は『鳥の眼になって上空から社会を見るのが好きだ』というようなことを言っていたのを思い出しました。

だから、英雄を好み、上からモノを見ることが好きな政治家や企業家に司馬遼は好まれて読まれているのですね。

田中正造も南方熊楠も、地を這って生きた強烈な土の匂いのする「地性の人」でした。司馬遼には古河一族の事を書く視点はあっても、谷中村の百姓達がなめた辛酸を書く視点はなかったでしょう。



田中正造 


3.11はラストチャンスか①

1月24日

3.11はラストチャンスか

NHKのEテレで、【日本人は何を考えてきたのか】というシリーズを放送しています。2回目の「自由民権は東北で始まる」と3回目の「森と水と共に生きる ~田中正造と南方熊楠~」をみました。

番組の狙いは、去年の3.11があって日本の社会は津波と原発の放射能で大きなダメージを受けてしまったが、これからどう再生していけばいいのかということを、明治以降の歴史をたどりながら過去から学んで考えていこう、というような趣旨だと思います。

2回目の「自由民権は東北で始まる」は、自由民権と言えば高知の板垣退助が有名ですが、東北にも福島に苅宿仲衛、宮城に千葉卓三郎、岩手に小田為綱という自由民権活動家がいたということを紹介していました。
外国列強に対抗すべく強力な中央集権政府を作り、富国強兵策をとりながら、天皇主権の大日本帝国憲法を制定しようとしていた明治の初期に、西洋の啓蒙思想を学んだ若者たちが、国民主権の今の日本国憲法に匹敵する内容の民主的憲法を作ろうと、東北各地で奔走していました。

民衆自身の手による憲法制定運動から始まった自由民権運動は、松方デフレによる生糸の暴落で困窮を極めていた農民らによって各地で困民党を結成する動きに発展しました。当時、秩父の農民が「困民党」を結成し、「自由自治元年」の旗を掲げて中央政府の打倒を目指して武装蜂起した「秩父事件」は、暴徒が天長様に楯突いたとして歴史の闇に葬り去られようとしていました。
戦後しばらく経ってから「秩父事件」は、国家の横暴に抵抗する民衆の生存をかけた戦いであったという見直しが始まりました。これに貢献したのは、明治民衆史を研究していた東京経済大学の色川大吉氏と、困民党終焉の地である信州出身作家井出孫六の一連の困民党シリーズの本でした。
また自由困民党の歴史の発掘は、戦後しばらくの間、西洋で生まれたマルクス主義がまだ発展的に社会の矛盾を解決する唯一つのものであると信じられていたのを、実は民衆解放の思想と運動は日本にもあったのだということの発見でもありました。「自由民権運動」「困民党」「秩父事件」の再評価は、江戸時代の革命家安藤昌益の「発見」と再評価に繋がり、こうした取り組みは70年代以降の運動に大きな影響を与えたと思います。

3.11があり、その後の復興は中央政府と政治の機能不全で進んでいません。
番組をみて、明治維新以降中央から冷遇され続けてきた東北が、今回も復興に際して同じような目に合っているような気がしてなりません。
そして今、東北のこれからの復興を考えるにあたって、かつて東北で大きく展開した明治の自由民権、憲法制定運動をもう一度見直すことを通して考えていこうという番組の趣旨が伝わりました。

津波ですべてを流され、それでも従業員を解雇しないで会社の再建を目指し、自分の会社だけでなく地域全体の復興・再生に動いている陸前高田の若社長の不敵な笑みは、自分の地域に対する誇りと、中央に頼らない自力再生への決意が現れているようでした。
偶然ですが、去年の暮れに彼の会社である八木澤商店の復興ファンドを購入しました。
プロフィール

市川勝彦

Author:市川勝彦
長野県阿智村で有機農業をしているオジサンです。長野県有機農研新規就農相談窓口。長野県里親農業者登録。郵政ユニオンOB。体の半分は福島人。今年新たに始めたのは被災地支援米プロジェクトと、原発を止める活動。原発が必要と思う人は、自分の家の隣りの原発が事故を起こしても甘受しますか。農村から都市を包囲せよ!

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